日本エネルギー会議

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日本人論と反原発

正月のテレビで「100分de名著」様々な名著から「日本人」を考える。ゲストの中沢新一,松岡正剛等が多角的に名著を分析、日本人の本質に迫るという番組があった。九鬼周造「『いき』の構造」からは、日本人の美学を。折口信夫「死者の書」からは、日本人の感受性を。河合隼雄「中空構造日本の深層」からは、日本人の心のかたちを。鈴木大拙「日本的霊性」からは、日本人の根源にあるものをといった具合だ。

その中で「日本的霊性」では、西洋人が理性と理屈で物事を分別していくのに対し、日本人は室町時代に始まり江戸時代には庶民にまで広まった禅の思想によって、分別の後ろから理屈を超えた無分別の目で観ているという分析があった。科学技術はまさにデカルト的分別から出発したもので、日本人も幕末に開国してから器用に西洋の科学技術を社会のあらゆるところに取り入れ、西洋に追いつこうとした。原発もその延長線上にあると言ってよい。

資源小国である日本に必要なものとして国を挙げて導入したことは分別からすれば、まったく理にかなったものであったが、50年経っても何故か国民の気持ちのなかに原発が増えすぎることを好まない気持ちがなくならず、説得しようと分別に訴えかければかけるほど反発を招いてしまう傾向がある。

また、作家や作曲家などの文化人、俳優や歌手などの芸能人などにあっては、反原発であることは業界にいるための必須要件のようにもなっている。彼らは理屈にならない理屈で反対を訴える。いくら火力発電の燃料費がかかろうと関係がないのだ。出版関係の人は原発推進本だけは自らの手で刊行したくないと思っていて、これは単に売れないからという理由だけではなさそうである。

こうした反原発に対して「好き嫌い」で物事を、ましてや国のエネルギー政策を決めるべきではないと言ってみたところで、ますます離れて行くばかりだ。その裏にはもっとも大事な判断にあたっては分別でなく無分別によるという日本人特有の感性が働いていると考えると、彼らの言動を少し理解出来るような気がする。

無分別は日本人にとって究極の美学であり、禅宗だけでなく浄土真宗でも妙好人という名で呼ぶ分別でなく無分別にしたがって生きる市井の人を理想とする。無分別を人生の理想と思う気持ちは、茶道、俳句、絵画、演劇、音楽など日本の伝統文化の根底に息づいており、茶室では床柱に普通は建築に使わない曲がった木が使われる。その副作用として日本人は、分別による説明に対して、出来ても出来なくても、その分別による判断を最高のものとはせず、それを超えたものを志向する傾向がある。

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