日本エネルギー会議

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エネルギー哲学

今回の解散総選挙は、アベノミクスの是非を問うということだったらしいが、我が国では昭和40年代の高度成長の頃からなにごとにも経済のことが優先される風潮となっており、最近はその傾向がますます強まっている。確かに経済は社会の基盤であり、経済がしっかりしなければ物質的に豊かな社会も、教育や文化の繁栄もない。だが、経済は手段であり、経済的繁栄自体が目的となってはおかしなことになる。経済が順調ならすべてがうまくいくと考えるのは単純すぎる。高度成長の終りごろ、地下鉄銀座線フォームに「豊かになったらどうします」という政府系金融機関の広告があった記憶がある。高度成長期の終わり頃から経済成長のその先に漠然とした不安を感じていたのだ。

エネルギー問題を取り上げても、現在はあまりにも経済的側面ばかりを強調しすぎている。経済学者宇沢弘文が「自動車の社会的費用」(岩波新書)で指摘しているように、エネルギーの作り手やそれを使う人は、それをすることによってさまざまな影響が社会に及ぶことを考えなくてはならない。エネルギー源として使われている化石燃料、ウランは、地表面や地下から採掘しており、人類による自然破壊という側面を持っている。再生可能エネルギーにおいてもダムによる自然破壊がある。火力発電では化石燃料を使用することで二酸化炭素が発生し、それが温暖化という二重の自然破壊も引き起こしている。原発では核燃料を燃やすことにより放射性廃棄物が発生し、その処理処分が問題となる。

西洋の考えでは人間に資源を与えるために自然が存在するものと考えている。これに対して東洋では人間も自然の一部であり、自然を傷つけないように注意を払い、その恵みを受けて生活をするべきと考えてきた。今は世界中が西洋の発達させた文明に覆われており、西洋の考え方で自然に対している。その欲求はとどまることを知らず、不足すれば新たなフロンティアを見つけて取りに行くのであり、東洋における「吾、足るを知る」の考えとは目指すところが逆である。温暖化防止についても、その結果が人間に不利益をもたらすので、温暖化ガスの排出を制限しようと考えているふしがある。

東洋の考えに立脚すれば、自然に源を依存するしかないエネルギーに対しては、自然の恵みと捉えて無駄な使い方はしない、可能な限り少ない量で済ませる。また、最大に効率よく使う工夫をする。そのことで、自然に対する影響を最小限にするとともに、子孫にもその恵みが残せるようにすべきで、科学や技術はそのためにこそ使われるべきだ。ドイツの脱原発は、事故の不安や廃棄物の問題を考えてのことだが、日本においては東洋的な自然に対する考えを基にしたエネルギー哲学がまず確立されるべきではないか。政策議論はその後だ。

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