日本エネルギー会議

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信頼醸成について考える(その二)

親鸞は「弥陀の救いがあることを信じることで誰もが救われる」と言ったが、現代では、ものごとをきちんと説明してもらい、それを正しく理解することが信頼の元になる。中途半端な知識や理解は、却ってあやふやな信頼となることが福島第一原発の地元でも起きていた。説明はプラスもマイナスも明らかにしてもらう必要があり、その結果で信じるかとどうかを決めることになる。この説明と理解(学び)は継続することが大切で、一度理解したからといってこれを永遠に信じ続けるのは危険だ。

信頼は現実と違うので、いわば幻に過ぎない。過去、現在、未来を通して絶対的に信じられるものはなく、ニュートンの法則ですら現実に即してみれば、必ずしも正しくはないということだ。その瞬間は良くても、次の瞬間には信頼出来ないということがある。信頼は瞬間的な仮の姿であり、平和と同じで恒久的なものではない。 

信頼に頼って安心をしようとすれば、たえず疑いの目で見ることが必要になる。これをさぼって「私は信頼している」というのは、一種の手抜きに過ぎない。つい最近も大手デパートで、ブランドもののアクセサリーが模倣品であることが発覚した。人々は商品をブランドを信じて買うが、売る側も買う側も気を許してはいけないのだ。毎回、品質について双方のチェックがかかるべきだ。そうでないと、ブランド品でないものは、詳しく調べ、ブランド品はそのまま買ってしまうということが起きる。すっかり安心しきって手抜きが始まると事故が起きるものだ。有名レストランでも行くたびに評価を変える必要があることを経験する。結果、星(信頼のシンボル)がなくなることもある。

信頼の醸成とはそんなものであり、面倒だが毎回確認するということこそ信頼してよいことになる。この点から考えると「信頼の醸成をしよう」とする試みは十分な注意を持って行う必要がある。信頼の醸成を積み重ねることによって、毎回確認をせず効率や経済性を上げることをねらうのであれば、それは信頼の空洞化を招く危険な行為になる。

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