日本エネルギー会議

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安全・安心の大安売り

 ここ数年で手垢のついた言葉はたくさんあるが、「安全・安心」という言葉ほど、聞くたびに虚しく響く言葉も少ない。これに対してますます輝きを放っているのが、BSE騒ぎのときに吉野家の社長(前社長の安倍修仁氏のこと)が言った言葉だ。安倍氏はインタビューで「安全を、と言われれば出来る自信があるが、安心を、と言われると無理だ」と答えた。当時は、原子力業界にもこんなことを言えるリーダーがいたらと羨ましかった。
 その後、「安全・安心」は政治家や経営者だけでなく、猫も杓子も使うようになった。この世の中で、大安売りしているもので、中身がしっかりしているものなど存在しない。「安心」とセットにされた「安全」はいい迷惑だ。
 調べてみると「安心」とは、仏法で得た深い心のやすらぎや動ずることのない確かな境地であり、恐ろしさから逃れ迷いを断ち切ることが出来れば、自ずから安心が得られるとある。さらに恐ろしさの原因は相手を信じないこと、迷いの原因は自分の欲望から来ていると。
 私の家は「悪人でも死んだら必ず極楽に行ける」と説く浄土真宗だが、欲望さえ抑えればこの世でも安心して過ごせる、そのために南無阿弥陀仏を唱えること以外は余計なことは考えずに暮らせばよいと教えている。「安全・安心」を南無阿弥陀仏のように使う人たちは無意識に「思考停止状態」を作ろうとしているわけだ。私が宗教学者だったら、現代社会にも影響を与え続けている浄土真宗について書くことが出来るかもしれない。
 「安全」は超現実的なものであり、そうでなくてはならない。これに対して「安心」は「安全状態」が長く続く結果によって出来上がる心の状態であり、まったく異質なものだ。これを一緒にするから、意味が無茶苦茶になる。「安全・安心」と使う人は、どうも「安全」だけでは物足りなさを感じており、そこに「安心」まで付け加えることによって、ありもしない「100パーセントの安全」を約束したいようだ。我が国では、こうした現実と願望の混同が科学技術や資本主義に純粋さを失わせている。この延長線上に、海外の識者から何故無駄な作業をと、呆れられている年間1ミリシーベルトを目指した福島の除染がありそうだ。
 「安全・安心」を常套句にする人に言いたい。「安全第一」の標識に見るように「安全」という言葉すら、時には油断を呼ぶ。まして「安心」はまったくの空手形であると。「信頼」も「安全」も「安心」もそれを言い出すことは一種の思考停止である。安全に関しては人や組織を信用しないほうが良い。安全で頼りになるのは行動と物とそれを裏付ける予算だ。「安全」とは危険が直ちに暴れないような状況を作り上げる行為と考える。安全はどこまでいっても達成することが出来ないものだが、当事者が常に危険を追放する行為を貫き通すことで、それを傍で見ている人たちが少しは安心するということではないか。

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