日本エネルギー会議

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安全文化を案ずる

 受信メールの中で「安全文化に関して思うこと」という近藤原子力委員長の文章が目に止まった。原子力委員会では様々な機会に原子力施設の運営者に対して強い安全文化の醸成を求めてきたが、今回「もんじゅ」の関連で日本原子力研究開発機構が原子力規制委員会から安全文化に欠陥があると指摘されたのは誠に遺憾だという書き出しで始まっている。
 安全文化というものがどのように世界的に議論されてきたか、IAEAでは組織の安全文化の評価についての取り組みが制度化されたこと、それは日本にも上陸し、強い安全文化の原則・属性・特性などの着観点で安全文化の評価活動が積極的に推進されていることなどが書かれている。最後に今後あらゆる機会を捉え、原子力の関係者に強い安全文化の実現に向けて連携し、人々の信頼に応えていくように求めていかなくてはならないと決意が述べられている。安全文化という考え方の誕生からこれまでの経過について、要領よくまとめられ、立派な決意まで書いてあるが、現場の経験を元に考えると、私には何かしっくり行かないのだ。
 私は、安全文化とは水面に映った月のようなもので、月そのものではなく、要は「結果」のことを表現しているものと思うからである。長い間、無事故の事業所は安全文化が高く、事故多発現場は安全文化が低いということではないか。評価のための着目点として挙げられている1)安全が明確に重要な価値として認識されているか、2)安全確保に対するリーダーシップが明確であるか、3)安全確保に対する責任が明確になっているか、4)安全確保が全ての取組に統合されているか、5)安全確保に関する学習が制度化されているか、なども、昆虫を顕微鏡で観察してスケッチしているようなものだ。
 若い頃、現場で安全担当をやらされた頃に、思い知らされたことは「安全というものは独立して存在するものではなく、現場の仕事やり方そのもの、現場の設備そのものだ」ということだ。その考え方から言えば、事故が起きたときに、「安全文化が低かったからだ」とするのは原因でもなんでもなく、それでは対策にも繋がらない。事故は不安全な設備や不安全な行動から起きるからだ。
 2002年頃、東京電力を始めとするほとんどの電力会社でデータ改ざんなどの不祥事が発覚し、今と同じように多くの原発が長期停止に追い込まれた。その時も盛んに安全文化ということが話題になったが、それは、現場がノルマや悪条件に耐えられずに、不正と知りながらやったことであり、いきなり安全文化の問題とすべきことではないという認識に欠けていたように思う。不正や事故は、それらを誘い出した「工期」「予算」「人的余裕」を洗い出して、それに適切な手当をすることでしか、再発を防げないものである。それをやるには「安全文化の評価」や「安全文化向上運動」より、よほど労力が必要だ。結果でしかない「安全文化」を錦の御旗にすれば、官僚主義や多層構造の請負体制がもたらす仕事のやりにくさや悪条件にメスを入れずに、「安全文化」という呪文で緊張感を高めることで、危機を乗り切ることにもなりかねない。
 「もんじゅ」の大量点検漏れを例に取れば、点検をしなかった理由というか、原因があるはずである。予算不足か、時間的余裕のなさか、基準のあいまいさか、人員不足か、能力不足か、情報パイプのつまりか、監視役が骨抜きになっていたのか、さぼっていても処罰されないようになっていたのか、かならず原因が特定出来るはずだ。やるべきことは、それを丹念に調べ、点検がきちんと行なわれるように一つ一つ直して行くことに尽きる。
「安全文化」の花を咲かせるには、茎や葉、それに根っこを泥臭く手入れするしかない。機構に対して「安全文化」を求めるのは良いが、いきなり「安全文化」から入るのは間違いだと思う。

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